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だるま/達磨について

6月13日、このサイトをリニューアルオープンしました。ロゴを新しく作成しました。だるまです。弊社の代表である大内真理子が描きました。『だるまるま』とネーミングしました。

以下、だるま/達磨について少し書きます。

だるまの形状について

日本には縁起を担いだ『だるま』がありますが、禅宗の開祖として有名な『達磨大師』はインド人です。だから、日本人にはめずらしい太い眉と濃いひげと大きな目となるのでしょう。

インドや中国では袈裟(僧侶の衣服)は黄色みがかったオレンジ色ですが、日本の『だるま』は赤い服を着ています。日本では古来より赤は魔除けの色で、縁起物として作られる(描かれる)際、赤色になったということのようです。

禅と言えば坐禅ですが、『達磨大師』は九年の座禅により手足が腐ったとの伝説により『だるま』は手足のない置物になったそうです。座っているので手も足もないように見えますし、伝説を大切にする日本ですから自然な流れでしょう。九年の座禅により編み出した武術が少林拳(後の少林寺拳法)だとか。。。

転んでも起き上がる象徴の日本の『だるま』ですが、祈願が叶うと目を書き入れる『だるま』は、実際のところは転がらないように底は平らに作られています。七転び八起きは、実は『だるま』ではなく『起き上がり小法師』という400年も前から作られていた福島県会津の玩具のことだそうです。お寺にも初詣に行く日本ですから、いつしかいっしょくたになってしまったようです。

描きながら丸くて赤い形状は、日本の国旗の赤丸を思い起こしました。自分は日本人だと改めて認識した次第です。

思想についての考察

私は宗教の専門家ではないので色々と断定はできません。ひとつのとらえ方としてこのように考えることもできると受け取ってください。

達磨大師から思想が多くの弟子に引き継がれて枝分かれし、そのひとつの日本の禅宗では、曹洞宗の道元禅師や臨済宗の白隠禅師などが有名です。
いずれも目指すは『無我』の境地ではないかと思うようになりました。

仏教というと、お葬式の時に関わる宗教で、死んで極楽浄土に行くために生きているときに徳を積んでおきましょうというイメージで、「死んでから仏になる」でした。しかし、調べてみると、道元も白隠も、真言宗の空海(弘法大師)も「生きて仏となれ」と説いています。いずれも共通して必ず仏は自分の中にいる、そしてとどのつまりは、『仏』=『無我』だというのです。『無我』とは、簡単に言えば(一瞬でも)すべての欲が自分から消えたときの状態です。それが仏であり、人の真の幸せの状態であるということなのです。本来の仏教は、現代の仏教のイメージとはまるで違いました。

話は少しそれますが、仏教の開祖は釈迦(仏陀:釈迦が悟った人になった以降の尊称)です。インド人です。達磨大師は釈迦の28代目の弟子にあたるそうです。釈迦から多くの弟子に枝分かれしているので、そのひとつの流れとなるのでしょうけれど、どのくらい長い年月伝えられてきたのかがわかります。釈迦は最終的に苦行ではなく瞑想により悟りを得ることができたのだそうです。

人間は誰でも欲を持っています。しかし、我が強いといつか必ず災いが来ます。わかっていても人間から欲を完全に取り除くことはできません。ではどうしたらいいのか。私が思うに、日々の生活の中において無我の状態になっていたと後で思うのは、死にもの狂いでなにかしているときではなかったでしょうか。

頭で理解していても、無我になるのは難しく、押し寄せる波があり、いつも無我の状態になれるとは限りません。だから一生修行ということになるのでしょう。

お客様のために世のために人のために一生懸命に仕事をする、それが人の真の幸福と説かれる無我の状態をつくると信じ、日々努力していきたいと思います。

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